2017_01
31
(Tue)19:00

【雑記】豆腐百珍 湯やっこ

「豆腐百珍」は江戸後期の天明2年(1782年)に醒狂道人何必醇(すいきょうどうじんかひつじゅん)というペンネームの人物が書いた豆腐料理の本で、版元は大阪高麗橋一丁目の春星堂、藤屋善七です。

豆腐百珍. [正編] より
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(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536494)

  → 豆腐百珍. [正編] (国立国会図書館デジタルコレクション)

著者の醒狂道人何必醇は料理人ではなく、篆刻家(てんこくか・印章職人)の曽谷学川(そだにがくせん)であると言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。いずれにしても教養とセンスのある人物だったようで、豆腐に関する和漢の文献から故事来歴をまとめ、漢詩なども盛り込んであって、料理レシピ本というよりも、どちらかというと“読み物”としての側面のほうが強いかも知れません。

“醒狂道人何必醇”というペンネームもなんだか洒落ていますよね。“何必醇”とは「濃厚な味ばかりが美味しい訳ではない」という意味らしいです。

豆腐料理を「尋常品」「通品」「佳品」「奇品」「妙品」「絶品」と、6段階で格付けして掲載したことも画期的で、この本は大阪から江戸へと下り、たちまち大ベストセラーになりました。そして翌年には「豆腐百珍続編」が、そのまた翌年には「豆腐百珍余録」が出版されます。

「豆腐百珍」の人気をきっかけに、「鯛百珍料理秘密箱」、「甘藷百珍」、「万宝料理秘密箱 卵百珍」などのいわゆる“百珍もの”が次々と出版され、江戸にグルメブームが巻き起こりました。このあたりは現代とあまり変わりませんよね。誰だったか「人間(民族)の本質は100年や200年経ったところでたいして変わらない」とおっしゃっていましたが、和猫も同感です。

「豆腐百珍」を実際に読んでみると、詳細な調理法が書かれていないものもあるし、想像で書いているものもあるよね?という料理もいくつか見受けられます。逆に、やたらと作り方に拘っているものもあって面白いです。

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(画像 「豆腐百珍」新潮社より P13、P74 )

これ↑なんて、どう見ても一般家庭で普通に作るような料理じゃないですよね(;・∀・)
左は「結び豆腐」といって、豆腐を薄く長く切って結んですまし汁を張ったもの。
右側はこれも豆腐を細長く切って、まるでうどんのようにして食べる「縮緬豆腐」です。

「尋常品」「通品」「佳品」「奇品」「妙品」「絶品」の格付けもなかなかで、以下のように書かれてあります。


尋常品(26品)
どこの家庭でも常に料理するものだが、その中にも料理人の秘伝といったものがあれば全て書き記した。

通品(10品)
料理に格別に難しいことはない。一般に知られているので、料理法は記すほどのことはなく、料理名だけを記す。

佳品(20品)
風味が尋常品にやや優れ、見た目の形のきれいな料理の類である。

奇品(19品)
ひときわ変わったもので、人の意表をついた料理である。

妙品(18品)
少し奇品に優るものである。奇品は形は珍しいが、うまさの点で妙品に及ばない。妙品は形、味ともに備わったものである。

絶品(7品)
さらに妙品に優るものである。奇品、妙品は最上の美味ではあるが、うますぎるきらいがある。絶品は、ただ珍しさ、盛り付けのきれいさに捉われることなく、ひたすら豆腐の持ち味を知り得る、絶妙の調味加減を書き記した。豆腐好きの人ならば、必ず食すべきものである。

(「豆腐百珍」 新潮社より) 


前回の記事「【雑記】江戸の豆腐」でも熱く語ったように、和猫は豆腐が大好きです。この時代に生きていたら絶対に何必醇の「豆腐百珍」を買ったと思います。そういえば、「細雪」で有名な文豪・谷崎潤一郎は美食家としても知られていますが、「豆腐百珍」に掲載されている100種類の料理をすべて作って試食したという話があります。

こちらは和猫が購入した現代語訳…というか、100種類の料理を現代のレシピで多少アレンジを加えて再現した「豆腐百珍」です。簡単な作り方も載っています。

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尋常品から絶品まで、田楽のレシピが合わせて14品あります。
江戸人はほんとうに豆腐田楽が大好きだったんですねぇ。木の芽田楽やお醤油を付けて焼いた田楽などのほかに、海胆を乗せて焼いたものまでありました。

100種類の中で興味があるものをいくつか作ってみたのですが、和猫の一押しはなんといっても絶品97番の「湯やっこ」です。
湯やっこは現代でいうところの湯豆腐のことですが、豆腐百珍の湯やっこは、お湯ではなく葛湯を使っているところがポイント!葛湯で温めることで、豆腐の舌触りがより滑らかになるし、冷めにくいという利点もあります。

また、花かつおと醤油で作るお出汁も最高です( ̄¬ ̄*)

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最近では和猫家で湯豆腐というと、この湯やっこを指します。


こちらがレシピになります。

豆腐百珍. [正編]より
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(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536494)
(コマ番号35~36の該当部分を繋げて赤枠で囲む)


①豆腐を3センチほどの采の目か、3.5センチくらいの拍子木に切る。
②葛湯を湯玉が立つほど沸かす。
③豆腐を一人前入れて、まさに浮き上がろうとするところを掬い取って器に盛る。
④浮き上がってしまっては加減がよくないので手っ取り早く!
⑤器も温めておくと良いでしょう。
⑥生醤油を煮立たせて花かつおを入れ、湯を少し足してさらに煮立たせて濾し、猪口に入れる。
⑦ネギの白根のざくざく、おろし大根、唐辛子の粉を入れる。


豆腐を入れて、まさに今浮き上がるっ!というところを見計らって掬い取るのが重要なポイントみたいですね(ノ´∀`*)
でも、豆腐を芯まで温めるには、もう少し長く葛湯でグツグツとやっておくか、あらかじめ豆腐を室温に戻しておく必要があると思います。

「ネギの白根のざくざく」とは、要するに刻み葱のことです。

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レシピをさらにわかりやすく書き直すとこんな感じ。
ちなみに分量は適当です( ̄∀ ̄*)


①生醤油を煮立たせて花かつおを入れてまた煮る。
②煮立ったら、適度にお湯を足して好みの味に調節して濾しておく。
③刻み葱、大根おろしを作る。
④豆腐を3センチほどの采の目か拍子木に切る。
⑤葛湯を作る。
⑥葛湯が沸いたら豆腐を入れて温め、先に作っておいた醤油出汁に薬味と、お好みで一味をかけていただく。


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江戸時代の味を完全に再現するには、豆腐の製造や醤油の製造から変えるところからやらないといけないのでほとんど不可能ですが、現代風にアレンジして食べる「湯やっこ」はまさに絶品です。

今夜のように寒い日は「湯やっこ」に限ります(*´艸`*)



<参考にした書籍・サイト>
・「江戸庶民の食風景 江戸の台所」 人文社編集
・「豆腐百珍」 新潮社
国立国会図書館デジタルコレクション
国立国会図書館 月報(2013年6月 №627)
・「下級武士の食日記」 青木直己・著



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2017_01
12
(Thu)07:15

【雑記】江戸の豆腐

和猫は豆腐が大好きです。

豆腐の種類や製造過程、大豆や水の違い、味の違いなど、そんな細かいことは深く考えたことはないけれど、とにかく豆腐という食材が好物で、結婚披露宴の時には某ホテルの料理長さんに無理を言って、和猫がずっと好きだった豆腐屋さんの豆腐を取り寄せてもらい、料理長さんによるオリジナルの豆腐料理を一品追加してもらいました。当然、追加料金はかかりましたが(涙)悔いはありません。それくらい好きです( ̄∀ ̄*)

お江戸の人々も豆腐が大好きだったようで、江戸後期に出版された「豆腐百珍」という豆腐料理の本は大ベストセラーとなり、出版の翌年には「豆腐百珍続編」が、さらにその翌翌年には「豆腐百珍余禄」が出版されました。また、江戸のおかず番付(日々徳用倹約料理角力取組)における精進の部では、“八はいどうふ”(八杯豆腐)が見事1位を獲得したほどです。

日本に豆腐が登場したのはいつの頃なのか…

一番古い記録は1183年(寿永2年)。奈良の春日大社の神主だった中臣祐重の神事日記で、「奉献御菜種」という供物を記したものの中に「春近唐符一種」という言葉が出てくるそうです。平安末期の頃には、日本ですでに豆腐は作られていたようですね。

初めは僧侶などの間で食べられていた豆腐が、次第に京の貴族、武家社会、そして全国へ広まっていきました。江戸初期に刊行された「大草家料理書」や「料理物語」の中にも、豆腐が使われた料理が掲載されていますが、この頃はまだ、庶民の食卓に豆腐が上ることはありませんでした。豆腐は高価で、幕府は農民に豆腐の製造を禁止していたようです。庶民の食卓に豆腐が登場するのは、江戸中期~後期になります。

いつの間にやら“江戸三白”といって、お米、大根と共に江戸っ子の人気食材となり、さらには「豆腐小僧」という妖怪キャラクターまで登場します。

夭怪着到牒 2巻より 
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(画像出典 → 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号3の図を切り取ったもの)
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8929732)

お盆に豆腐を乗せて運ぶも、なぜか必ず落としてしまう妖怪らしいです。ただそれだけ(ノ´∀`*)
人畜無害で妖怪と呼ぶにはあまりにも怖くないキャラですが、江戸の子供たちに大人気!草双紙や黄表紙、怪談本、また、凧や双六、かるたなど玩具のキャラクターにもなりました。現代版妖怪ウォッチのようなもの?!

豆腐小僧が持っている豆腐の絵をよくご覧ください。側面に、もみじの葉が描かれているのがわかりますよね。当時の豆腐にはこのようにもみじの葉が刻印されていたようで、これは「紅葉(こうよう)」と「買うよう」をかけた洒落というのが一般的な説になっています。しかし「豆腐に紅葉これといふ言はれなし」という川柳にもあるように、別に「買うよう」だったら豆腐じゃなくてもいいですよね…

「守貞謾稿 後集巻1」によると(大阪府)堺市の特産が「紅葉豆腐」で、そう名付けてあるのは堺で捕れる桜鯛にも劣らない味なので、“桜に対する紅葉”ではないか、とありました。また京坂では菱型の印だったらしいです。

  → 守貞謾稿 後集巻1 コマ番号30 (国立国会図書館デジタルコレクション)

では、江戸後期の豆腐ってどんな感じだったのでしょうか?
「守貞謾稿 第6巻」、さらに上記の「守貞謾稿 後集巻1」に登場する江戸と京坂の豆腐を比較した記述によると、江戸と京坂(阪)では大きさや金額なども違っていたとあります。

守貞謾稿. 巻6より 
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(画像出典 → 国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号10) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592395)

縦一尺八寸(約54cm)、横九寸(約27cm)の箱で豆腐を作り、十または十一に切り分けたのが江戸の豆腐の“一丁”で、四分の一丁から販売していたとあります。価格は一丁が50文~60文。現代の価格に換算するとおよそ825円~990円ということになります。高い!と思うかも知れないけれど、現代の豆腐よりも4倍は大きかったようです。

京坂の豆腐は江戸よりも小さくて柔らかく、価格は2文(198円)。色は白くて江戸の豆腐より美味しいとあります。
一方、江戸の豆腐は硬くて白くなく、京坂のものより味も劣るということです。江戸にも汲み豆腐という柔らかい豆腐はあるけれど、京坂には絹ごし豆腐というものがあって、さらに柔らかい。京坂の豆腐は水に入れないと崩れるけど、江戸の豆腐は崩れることは稀であったそう。

「守貞謾稿」の記述で豆腐を作る箱の縦と横の寸法はわかるけれど、幅が記載されていないですよね。幅はどれくらいだったのだろう?気になる…

ということで、さらに調べてみましたら、天保の改革で豆腐の値段統制が行われていて、その時の資料に豆腐の規格が記されていたようです。

  → 江戸 一八四二 (東京都公文書館 天保の改革と江戸の食より PDFファイル)

 豆腐は標準的には縦七寸(約21cm)、横一尺八寸(約54cm)、幅六寸(約18cm)の箱で制作し、これを九等分したものを一丁(挺)とすること。 


リンク先には図もあるのでわかりやすいですね。これによると・・・

      一丁 = 縦七寸(約21cm) 横六寸(約18cm) 幅二寸(約6cm)

ということになるので、やはりかなり大きい(;・∀・)
「現代の豆腐のおよそ4倍の大きさ」に納得です。
ちなみに現代の豆腐、一丁の大きさには特に決まりはないらしいです。

お江戸の豆腐は店頭販売以外に、主に振売り(棒手振り)で朝、昼、夜の3度、売り歩いていました。女房が店頭で売って、旦那が振売りというパターンだったようです。

先ほどの「守貞謾稿. 巻6」に描かれている豆腐売りの絵です。

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(画像出典 → 国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号10) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592395)

こんなふうに「とぉふいぃーとうふっ!」という売り声と共に長屋まで売りにきてくれたので便利ですよね!和猫の家にも出来立ての豆腐を売りに来て欲しいと切に願う( ̄人 ̄) また、「豆腐売り 貧乏寺の 時計なり」というように、豆腐屋さんの売り声で時間を確認できたそうです。

江戸っ子は豆腐料理の中でも特に田楽が好きだったようですね。前述のように江戸の豆腐は滅多に崩れることがない硬さだったから、田楽という料理法が向いていたのかも知れません。

「豆腐百珍」の挿絵にも豆腐田楽を作っている様子が描かれています。

豆腐百珍より
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(画像出典 → 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号5)
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536494)



次回はその「豆腐百珍」について書いてみようと思いますヾ(*´∀`*)ノ



<参考にした書籍・サイト>
・「江戸庶民の食風景 江戸の台所」 人文社編集
・「絵でみる江戸の町と暮らし図鑑」 善養寺ススム・著
・「絵でみる妖怪図鑑」 善養寺ススム・著
・「豆腐百珍」 新潮社
・「江戸の家計簿」 磯田道史監修
・国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/
刊行物_東京市史稿_産業篇附録大江戸10(五十五解読の手引き)

2017_01
02
(Mon)15:35

【雑記】江戸の門松

あけましておめでとうございます!
今年も力いっぱい真央さんを応援しつつ、
マイ(マオ)ペースで好きな時に、好きな事を、好き勝手にブログに綴っていきたいと思います(*´∀`)

2017年の元旦は暖かくてとても良いお天気で、
午前中に初詣に出掛けたのですが、すでに多くの人で賑わっていました。
おみくじを引いてみたら「末吉」で、ここ2年ほど、いつどこでおみくじを引いても「大吉」だったのに、
ついに!その快進撃にも終止符が打たれてしまいました( ;∀;)

帰宅して手作りのおせち料理(簡単なものです…)を食つつのんびりと過ごした元旦でしたが、
お江戸の住人たちも、元旦はのんびりと過ごしていたようです。

お正月は年神様(歳徳神様)が日の出と共に、おうちにやってくる日。
年末に大掃除をするのも、年神様を気持ちよく迎えるためですね。

綺麗になった家に迷わず年神様が来てくれるように、目印となる門松を立てて、
年神様の依り代となる鏡餅をお供えします。
門松には松や竹が使われていますが、これは常磐木(ときわぎ)に神が宿ると考えられてきたからで、
松以外にも、杉、楠、榊、樒(しきみ)などを用いるところもあります。

また、関東と関西では飾り方も若干違うみたいです。
関西では松を高くして竹を低く、関東はその反対で松は竹よりも低く足元に揃えて差します。

福男で有名な兵庫県の西宮神社では、神様が松の葉に刺さらないようにと、
松を上下逆さまに挿す、「逆さ門松」という飾り方をしますが、
門松ひとつとってみても、デザインはいろいろです。

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拝殿前に「逆さ門松」を立てる神職ら
兵庫県西宮市社家町の西宮神社で、山本未来撮影 (毎日新聞)
http://mainichi.jp/articles/20161228/ddl/k28/040/310000c


では、江戸時代の門松はどんなデザインだったのでしょうか?

下記の画像は「江戸名所図会」より。
大名諸侯が徳川将軍に新年の挨拶をするために、
江戸の大名屋敷の門前に行列を作っている様子を表していますが、
門前の両端に、七夕の笹飾りみたいな大きな木が飾られているのがわかります。

かなりでかいですw( ̄Д ̄;)w

元旦諸侯登城之図(江戸名所図会より)
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(画像出典 → 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994930/28)

大名屋敷や大店などは、このように家の軒よりも高い門松を立てて財力を示していたそうで、
出入りの鳶職人さんが作成していた模様です。高さ7メートルもある門松もあったとか。

こちらは、近江商人の旧宅「五個荘近江商人屋敷 外村宇兵衛邸」に再現された江戸時代の門松。

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再現された江戸時代の門松
滋賀県東近江市五個荘金堂町の「五個荘近江商人屋敷外村宇兵衛邸」で、金子裕次郎撮影
http://mainichi.jp/articles/20151223/ddl/k25/040/522000c


高さはおよそ5メートル!
竹は笹の葉を付けたままで、足元は薪で囲って固めてあるので、
「江戸名所図会」に描かれているものと同じですね。


これも、江戸時代の門松を再現したものです。

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菊屋家住宅に設置される門松 (読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20161227-OYS1T50012.html


山口県萩市呉服町の国指定重要文化財・菊屋家住宅の長屋門に飾られている門松で、
「高さ2・3メートルのアカマツとクロマツを、門の左右に設置。それぞれの土台部分に、
1年間を月数で表した12本のクヌギを円すい状に並べ、丁寧にわら縄を巻いて完成」させたそう。
竹は使用せず、松だけで飾っているのですね。

江戸時代後期の江戸・京都・大阪の風俗を説明した百科事典「守貞謾稿(もりさだまんこう)」にも
門松のことが書かれてありました。

守貞謾稿. 巻26
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(画像出典 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592412/4)

図を切り取ってみるとー


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江戸、武邸は勿論、市中にても呉服大店のみにあらず、諸買とも大店にて、専らこの制を用ふ。図の如く飾らざる門松には竹を添へず松のみを専とす。松の根、専ら薪をもって囲む。あるいは松を中心に、その三方に薪を地に打ちて、ここに縄をもって引き張るもあり、家ごとに恒例ありて一定ならず。


この図の門松は、竹を使用せずに松だけで飾っているので、
先の菊屋家住宅に再現されたものと似ていますが、しめ縄のオプションもついていますねー。
また、家ごとに種類も様々で、これといって決まったデザインがあったわけではないようです。

もうひとつの門松は・・・


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図の如く、太きそぎ竹に小松を添ふるもあり。そき竹を建てたるには注連縄は戸上に打つ。医師など此の制多し。


なんとなく現代の関東風門松に似ていますが、竹を斜めに切った飾りはお医者さんに多かったとのこと。
これは、自分は藪医者ではないという意思表示だったとか(ノ´∀`*)

また、元亀3年(1573年)の三方ケ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に大敗してから、
家康が「武田の首を斬る」という意味で、竹を斜めに切って飾ったことが
斜めに飾るようになった起源とする説もありますよね。

門松ひとつとってみても、いろいろな風習、歴史、逸話があってなかなか面白いです(*´▽`*)



お正月といいながら、明日3日が仕事始めの和猫でした(´;ω;`)
今年もよろしくお願いします!


2016_09
16
(Fri)17:00

【雑記】江戸のお月見

9月15日は中秋の名月で、今年はお天気が少し心配されましたが、和猫の生息地域では雲の合間からなんとかお月様を観ることが出来ました。

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「十五夜さん」だけど月齢13.7で、満月は17日になります。和猫が昨夜撮影したお月様を見ても、まだあと2割ほど、顔を出していないのがわかります。「中秋の名月」は旧暦の8月15日になるので、毎年、こうやってズレが生じますね。ちなみに次回、中秋の名月と満月が重なるのは2021年なのだそうです。

月見のルーツは、稲の豊作を祈る祭りを行ったことが始まりだという説や、中国の宮廷行事が日本に伝わった説などありますが、平安時代には貴族の間で月見が盛んになり、醍醐天皇の時代に宇多法皇が月見の宴を張り歌を詠んだという記録が最も古いようです。

お月見が一般庶民の間に広がったのは、江戸時代からになります。
お江戸の人々は、様々な形で「お月見」を楽しんでいました。

◆十五夜、十三夜

お江戸のお月見は、中秋の名月(十五夜)である8月15日と、後の月見(十三夜)である9月13日の両日にお月見をすることが常識でした。片方だけというのは「片見月」と言われ、縁起が悪いとされていたそうです。

十五夜の日、「十五」にちなんで、一人十五個ずつお団子を食べていました。

また、お供えするお団子は別に作ります。今では十五夜にちなんで一寸五分(約4.5センチ)が縁起が良いとされていますが、お江戸のお供え用のお団子はもっと大きく、三寸(約9cm)くらいはあったそうです。でかい…(;´∀`) 深川江戸資料館のHPに掲載されている写真のお団子も大きいです。

 参照 → 江戸庶民の年中行事再現 「月見飾り~十五夜・十三夜~」

早朝から家族みんなでお団子を作ることが縁起が良いというので、家族総出でお団子を作っていたようですが、大家族となると、食べる用とお供え用のお団子を準備するだけでも大変だったのではないかと思います。

四季子供遊び 秋 玉川舟調・著
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(画像出典 http://www.mfa.org/collections/object/download/189190)


たくさん作ったお団子は、家の軒先に出しておくと近所の子供たちが「お餅つかせて!」と言いながら、棒やお箸でお団子を突いて盗んでいきました。盗まれた家には福が訪れ、盗んだ子供は元気に育つということから、大人公認のいたずらです。

「お餅つかせて」を「Trick or Treat」に変えると、まるでハロウィンのようです(´∀`)
現代でも「お月見泥棒」といって、子供がお供え物を盗っていく地域がありますね。

十五夜を「芋名月(いもめいげつ)」ともいうように、里芋の収穫期であることからお芋も備えていました。また、その他の必須アイテムとして欠かせないのがススキです。

ススキは秋の七草と共に、8月14日から8月15日のお昼まで、物売りが売り歩いていました。一束が三十二文くらいしたそうです。お蕎麦の倍の金額です。けっこう高い(;・∀・) 杉浦日向子さんの著書「お江戸でござる」によると、「縁起担ぎの意味や季節限定の際物だから、高くても仕方ない」のだそうで、これは現代も似たようなものですね。

ススキを飾るのは、月の神様であり農業の神様でもある月読命(つくよみのみこと)がススキを依り代にして降臨されるからで、お月見のススキは正式には1本飾れば良いそうです。また、稲の収穫が終わった後なので、稲穂の代用品としてススキを飾るという説、ススキの切り口は鋭いので魔除けになる、など、理由は様々です。

8月15日が過ぎると、翌日は満月よりも少し月が出てくるのが遅い、いざようように出てくるので「十六夜」、その翌日は立って待っている間に月が出るので「立待月」、18日は座敷で待っていると出てくるので「居待月」…など、それぞれの月を楽しんでいました。

また、9月13日の「十三夜」は栗をお供えするので「栗名月」、枝豆を食べながら月の出を待つので「枝豆月」などといいます。

◆二十六夜待ち

お江戸のお月見の中でも特にビッグイベントだったのは、実は十五夜ではなく「二十六夜待ち」でした。
お正月と七月の二十六日に出る月を待ち拝むというもので、気候の良い七月は特に大賑わい! 

二十六日ごろの月はすでに宵待月。月が顔を出すのは深夜2時くらいです。
月が出てくる瞬間に光が三つに分かれて、阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が姿を現すと言われており、その御利益にあずかるために、品川や高輪、洲崎などの浜辺や、湯島、九段などの高台にたくさんの人が集まったそうです。

江戸名所図会  高輪海辺二十六夜待 斎藤幸雄 編
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176676)

上記の江戸名所図会を見ると、ちょうど月の出を描いているようで、画像の向かって右上に月の光らしきものが見えます。しかし三つじゃなくて、六つに分かれている(;´∀`)

江戸っ子はどちらかというと、月を拝むよりも、月の出を待つ間のどんちゃん騒ぎを楽しんでいたようで、にぎり鮨、蕎麦、天麩羅など、江戸っ子のソウルフードを売る屋台がたくさん出店して、多くの人が楽しんでいる姿、料亭や屋形船で酒宴を楽しむ姿などが錦絵に描かれています。

江戸東京博物館が所蔵している歌川広重(初代)の「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」は特に面白いです。

  こちらをクリックするとみられます → 高輪廿六夜待遊興之図

拡大して見て見ると、屋台の前を行きかう人や、御座のようなものを抱えている人、座って夜空を眺めている人などで賑わっている様子がわかりますが、画像の左下にはなんと、タコの着ぐるみを着た人物が(;・∀・)


  太田記念美術館さまのTwitterにも♪ → 太田記念美術館


確かに何の目的で仮装しているのか(;´∀`)
しかしこれこそお江戸のハロウィンのようですね。

こちらは屋形船から月の出を待つ女性たち。

江戸自慢三十六興 高輪廿六夜 豊国,広重・著
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303628)

しかしこのビッグイベントも、天保の改革以降は規制を受けて次第に衰退し、明治の頃にはすでに廃れてしまいました。
なんとなく残念なような気もしますね。

様々な形でお月見を楽しんでいた江戸の人々。現代ではなかなかゆっくりとお月見をすることが出来なくなりましたが、せめて十五夜など特別な日くらいは、仕事帰りや自宅の庭先、ベランダなどから夜空を眺めてみるのもいいかも知れません。
満月は明日です(=´∇`=)


<参考にした書籍・サイト>
・「お江戸でござる」 杉浦日向子・著
・「江戸の暮らしと二十四節気」 土屋ゆふ・著
十五夜の由来(清月堂本店のHP)



2016_08
08
(Mon)23:10

【雑記】江戸の花火

夏の夜を彩る花火はお江戸の人々も大好きで、両国の川開きで花火が打ち上げられる日は、夕方になると両国橋に続々と見物人が詰めかけ、橋の上は押し合いへし合いだったそうです。

東都両国ばし夏景色 著者・五雲亭貞秀,貞秀
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307052)

この錦絵にはたくさんの屋形船や屋根船、ひらた船、猪牙(ちょき)船が浮かぶ隅田川、そして両国橋の上には米粒が散らばっているかのように多くの人が描かれていますね。これはさすがに盛りすぎ?!( *´艸`) でも、それだけ大勢の人が詰めかけたことがわかります。

◆花火の歴史

花火が初めて日本に伝わった時期ははっきりとしていませんが、一般的に天文12年(1543年)の鉄砲伝来以降とされています。戦乱の世は、火薬は鉄砲に使用されていましたが、世の中が安定してくると花火に使用されるようになりました。

しかし、日本人が、いつ、どのようにして花火を鑑賞するようになったのかは、あまりはっきりしていません。

古い記録になると、室町時代の公卿、万里小路時房の日記「建内記」にまで遡るようです。時房の日記によると、花火が鑑賞されたのは文安4年(1447年)になるので、鉄砲伝来以前になりますね。花火が行われたという京都市上京区にある清浄華院のサイトには、「記録上最古の花火興業の寺」として詳細が掲載されていました。

  こちらです → 清浄華院の逸話 記録上最古の花火興業の寺

記録を読むと、唐人が庭で「風流事」を行ったとあり、この風流事というのが花火なのだそうです。現代でいう爆竹とか、ネズミ花火では?と思えるような記録もあって面白いですね!

また、伊達政宗や徳川家康が花火鑑賞をしたという記録もあります。伊達政宗は、NHK大河ドラマ「真田丸」の中でずんだ餅作りを披露していましたが(笑)、正宗公は派手好きだったらしいので、いかにも花火好き!という感じがしますね。(ただし、正宗公の花火に関する記録には疑義もあるようです。)ただ、この時代の花火は、竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのもので、まだ打ち上げ花火のようなものではなかったようです。

◆江戸時代の花火大会

江戸時代になると、花火は江戸っ子たちの間で流行しはじめ、「町中にて大花火拵売候儀かたく御法度」(町中で花火を仕入れて売ることは禁止)などと、たびたび花火を規制する御触れが出されています。火事の多い江戸でしたから、花火は御法度だったんですね。それでも川岸での花火や、手に持つタイプの花火ならOKなど、場所や花火の種類によっては許可されていました。

そんな中、万治2年(1659年)に大和篠原村出身の花火師、弥兵衛が両国横山町に「鍵屋」を出店します。あの「たーまやー!」「かーぎやー!」の掛け声でお馴染みの「鍵屋」さんです。初代の鍵屋さんから数えて6代目弥兵衛の時代に、現代の隅田川花火大会の原型になる、両国の川開き花火大会が始まりました。

東都名所 両国橋夕涼全図 著者・一立斎広重
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302532)

享保17年(1732年)、江戸でコロリ(コレラ)が大流行し、地方では大飢饉で多くの死者を出してしまう事態となりました。犠牲となった人々の慰霊と悪病退散を祈願して、翌年の享保18年(1733年)、八代将軍吉宗が水神祭を行いました。その際、花火が打ち上げられたことがきっかけで、翌年、翌々年と続き、ついには恒例の行事になるのです。

◆鍵屋と玉屋

川開きの日以外にも、隅田川では花火がたびたび打ち上げられるようになります。鍵屋さんにいた腕の良い花火師が暖簾分けで「玉屋」を開業しますが、両国橋を挟んで上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当して、両者による花火の饗宴が観られたそうです。

江戸名所図会 両国橋 この人数 船なればこそ 涼みかな 其角
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(画像出典 https://sites.google.com/site/edomeishozue/home/01/ryougokubashi)

上の江戸名所図会では、両国橋を挟んで向かって右側が鍵屋の花火で、左側が玉屋の花火です。

ちなみに「鍵屋」「玉屋」の屋号である“鍵”と“玉”は、稲荷信仰によるものだそうです。
鍵屋が信仰していたお稲荷さんの狐が、一方は鍵をくわえ、一方は玉をくわえていたことから屋号にしたことを表す「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という古川柳が残されています。

互いに競い合っていた「鍵屋」と「玉屋」でしたが、天保14年(1843年)に玉屋が大火事を出して半町ほどを焼いてしまい、また、その日は将軍家慶が日光へ御社参される前日だったことも重なって、江戸払いという重い刑を受け廃業してしまったのです。玉屋が活躍したのは35年間という短い間でしたが、江戸の人々はいつまでも玉屋を思い、玉屋がいなくなった後も「たまや~!」という掛け声を掛けていました。

「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」

「情」と「錠」をかけた狂歌で、「鍵(情)が無いから口が開かない。鍵屋の声が無くても仕方ない」という洒落ですが、こんなエピソードもなんだか江戸っ子らしいなと思いました。

◆江戸の打ち上げ花火

江戸時代の打ち上げ花火は、現代のような色彩豊かなものではなく、オレンジ一色で、それが放物線を描きながら落ちていく「流星」という花火が主流でした。今のように派手ではありませんが、まだ街燈さえない時代です。江戸の夜空を華やかにしたことは間違いありません。

東都両国夕凉之図 著者・貞房
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312588)

江戸の頃は尺玉などもなく、江戸後期、幕末近くになると四寸玉が登場。一晩の花火で上がる数も20発前後で、上がる間隔もゆっくりでした。ひとつの花火を作るのに数ヶ月近くかかり、そのため一発のお値段も高価で、だいたい一両が相場。時間を掛けて作った一両(数十万円?)もする花火が、一瞬で消えてしまうのですね。しかし、それは現代も同じかも知れません。そして一瞬だからこそ、花火は美しい。

     「一両が花火まもなき光りかな」 榎本其角
     「夏の涼みは両国の 出船入船 屋形船 上がる流星 星下り 玉屋がとりもつ 縁かいな」 端唄

花火の費用は、船宿が8割、両国の茶屋や料亭が2割を負担していましたが、この時期は船宿などの料金も割り増しになっていたので、実質、お客も負担していたようなものでしょうか?(^^; また、自分でお金を出して打ち上げてもらう大店の旦那衆もいて、店の繁盛ぶりを見せつける良い営業の機会でもあったようです。

そのうち、川沿いに屋敷を持つ諸大名も、商人に負けてはならぬと競って花火を打ち上げるようになりました。徳川家の花火は特に豪華で大変な人気だったといいます。

杉浦日向子さんの著書「お江戸でござる」によると、江戸の花火は夕方から始まって、日が暮れてしまう頃にはお終いだったそうです。これは、「とっぷり暮れる頃には、お月様とお星様に空を譲ろう」という江戸っ子の粋な計らいであった、ということです。

東都両国の夕涼 著者・房種
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(画像出典 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304399)

現代でも花火はやっぱり日本の夏の風物詩。毎年各地で開かれる、花火師たちの豪華な饗宴となる大規模な花火大会もあれば、地元の夏祭りで上がる花火もある。家族や友人と、スイカを頬張りながら、遠く夜空に煌く花火を眺めるのもまた楽しい。

子供の頃、祖母にもらったお小遣いを握りしめ、近所の雑貨屋まで駆けて行って花火を買い込み、日が暮れるのを今か今かと待ちながら兄弟や従姉妹たちと遊んでいた和猫です。目を閉じてみると、毎日が常に新しい発見の連続だったあの懐かしい夏の日々が、花火の打ち上がる音と共に、鮮明に甦ってきます。


<参考にした書籍・サイト>
・「江戸の暮らしと二十四節気」 土屋ゆふ著
・「お江戸でござる」 杉浦日向子著
・江戸の歳時記 8月 江戸の花火(東都のれん会のサイト)
日本の花火文化と鍵屋弥兵衛(奈良県五條市のサイト)
鍵屋の歴史(株式会社 宗家花火鍵屋のサイト)