2017_03
25
(Sat)14:45

【雑記】桜餅

本日3月25日から、七十二候では「桜始開(さくらはじめてひらく)」になります。
いよいよ桜の季節ですねヾ(*´∀`*)ノ

桜の季節の代表的な和菓子といえば、なんといっても桜餅です。

桜餅にはよく話題に上がるように、関東風の「長命寺」と関西風の「道明寺」がありますよね。

SAKURAMOTI5.jpg
関西風の桜餅

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関東風の桜餅

皆様はどちらに馴染みがありますか?
和猫の中で桜餅といえば、道明寺粉を使用したお米の粒感が残るお餅風のものであって、
小麦粉生地を薄くのばしてクレープ状にしたものに餡を挟む関東風の桜餅は、
関西では見かけたことがありません。

2015年にJタウンネットが調査した桜餅に関するアンケート結果を見ると、
現在では全国的に見ても関西風の道明寺が主流のようです。

こちら → 桜餅といわれて「皮で巻いたモノ」を思い浮かべた人...あなたは少数派です

SAKURAMOTI7.png
(画像 → http://j-town.net/tokyo/research/results/201962.html?p=all

しかしJタウンネットの記事にもあるように、
“元祖”桜餅は関東風の長命寺桜もちであるというのが一般的です。

時はお江戸まで遡り享保2年(1717年)。

八代将軍徳川吉宗が隅田川の東岸に鷹狩りに訪れた際、
この辺りの風景の寂しさを残念に思い、隅田川の堤防に桜の木を植えるよう命じました。
その結果、浅草から向島の隅田川堤は桜の名所となり、多くのお花見客が訪れるようになりました。

春色隅田堤の満花 香蝶楼豊国,一陽斎豊国
SAKURAMOTI3.png
(画像出典 → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1301813?tocOpened=1

その向島にある長命寺で門番をしていた山本新六が、桜並木の落葉を掃いていたところ、
この落ち葉を再利用できないか?と考案したお菓子が現在の桜餅の起源とされており、
江戸で大流行した長命寺桜餅がしだいに各地に伝わり様々な形で作られるようになったとか。

江戸で作られていた長命寺桜餅も現在は小麦粉が使用されていますが、
もち米や葛を使用していた時期もあったようです。

三囲みやげ桜餅 渓斎
sakuramoti1.png
(画像出典 → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307381

下の錦絵には、女性が桜餅の入った竹籠を棒に渡して運んでいる様子が描かれています。

江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅
sakuramoti2.png
(画像出典 → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303621

江戸時代から愛され続ける元祖桜餅のお店「長命寺桜もち 山本や」さんは現在も続く老舗で、
錦絵にある竹籠入りの桜もちも販売されているそうです。

  → 向島 長命寺 桜もち(公式HP)

それにしても山本新六はどうして桜の葉を塩漬けにしようと思いついたのでしょう?
はじめは醤油に漬けてみたけど評判がよくなくて塩漬けになったというお話もあるようですが、
桜の葉はそのままだとそれほど香りません。
塩に漬けることによって芳香成分(クマリン)が強く出てくるのだそうです。
塩漬けを思いついた新六さん、グッジョブですにゃ。

使用するさくら葉は柔らかい大島桜の葉で、約7割が静岡県賀茂郡松崎町で生産されているそうです。

ここでよく話題になるのが、この桜の葉を食べるか?食べないか?ということですよね!
和猫は葉の繊維が口に残るのがあまり好きではないので、葉はなるべく剥がして食べるようにしています。

元祖桜もちの山本やさんのHPによると、好みなのでどちらでも構わないけれど
桜の葉は香り付けと、それから乾燥防止のためにつけているものなので
外して食べることを勧められているようです。

山本やさんの桜もちは、葉を3枚使用しているようなので、
一部だけ食べるという方もいるかも知れないですね。

ちなみに曲亭馬琴が編集した随筆集「兎園小説」(1825年)によると、
山本やさんが文政7年(1824年)に使用した桜の葉は77万5千枚だそうですw(゜ー゜;)w

当時は1個当たり2枚の葉を使用したということなので、
単純計算すると1年で38万7千5百個
1日に千個以上の桜餅が売れたことになります。
大人気だったんですねぇ!

やはり江戸っ子も「花より団子」だったのでしょうか?(ノ´∀`*)

そういえば、日記に詳細な生活や食に関する記録を残した紀州和歌山藩の酒井伴四郎も
江戸勤番時代に桜餅に関する記述を残しています。


さて向島あたり茶屋・料理屋向かつ別荘などの風雅なること筆紙につくしがたく、ただうらやましくばかり也、夫より牛の御前へ参詣、この所の懸茶屋にて茶を吞、桜餅など喰(略)浅草観音え参詣ここにて浅草餅を喰、それより浅草通にてすしなど喰、また祇園豆腐にて飯を喰・・・

「下級武士の食日記」より引用


食いしん坊の伴四郎さん、ここでも食べてばかりなんですけど(ノ´∀`*)

文中の「牛の御前」とは墨田区向島にある牛島神社のことで、
ここの茶屋でお茶を飲んで桜餅を食べたようです。


葉にまきて出す まこゝろや 桜餅

正岡子規も愛した和菓子「桜餅」。

関東風でも関西風でも、またそのどちらでもないものでも良い。
各々馴染みの「桜餅」をお花見のお供にいただくのは、
やぱり日本人にとって江戸の昔から春の楽しみのひとつなのでしょう(´∀`)



【参考にした書籍・サイト】
・「事典 和菓子の世界」 中山圭子 著
・「下級武士の食日記」 青木直己 著
桜の葉の塩漬け(伯方の塩のHP)
桜餅といわれて「皮で巻いたモノ」を思い浮かべた人...あなたは少数派です(Jタウンネット東京都のHP)
向島 長命寺 桜もち(山本やさんのHP)
国立国会図書館デジタルコレクション




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2017_01
10
(Tue)12:05

【雑記】花びら餅

お正月にいただく御祝いのお菓子として人気の花びら餅。
白くて丸いお餅(または求肥)の上に紅色のお餅を重ねたものを半分に折りたたんで、中には白味噌の餡と牛蒡が挟んであるものが一般的かな?と思います。白いお餅の内側から薄っすらと透けて見える紅色が綺麗ですよね。

下記は、和猫が近所の和菓子屋さんで購入した花びら餅です。

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こちらの花びら餅には、牛蒡だけでなく人参も挟んでありました。
人参が挟んであるものを食べたのは初めてで、一口に「花びら餅」といっても、お店によって少しずつ異なるようです。

花びら餅の由来を調べてみると平安時代にまで遡り、宮中のお正月行事である「歯固めの儀」が起源だと、だいたいどこのサイトを覗いてみても、そう書いてあります。「歯固めの儀」というのは、おせち料理や鏡餅の起源でもあるとされていますが、花びら餅については知らなかったなーと思って少し調べてみました。

「歯固めの儀」とは、お正月の元日から3日まで、天皇に対して大根、瓜、押鮎、焼鳥、猪宍・鹿宍などを献上する儀式で、長寿を祈るためのものです。献上される品は時代によって変わってきているようですが、実際は食べることはなく、箸を付けて“食べたとみなす”のだそうです。

こちらは京都府の「総合資料館だより(2009年1月)」からお借りした画像です。
(リンク → 総合資料館だより ISSN 1882-0514 PDFファイル)

資料 高橋大隈両家秘伝供御式目より
habatame8.png

この図は大隈重信が享保6年(1721年)に、「類従雑要抄」から復原して描いたもので、「御歯固」と記してありますね。「京の記憶アーカイブ」から大きくて綺麗な画像を見ることができます。

「高橋大隅兩家祕傳供御式目」の4コマ~5コマの画像です。

 4コマ目 → http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail/224892/1/4
 5コマ目 → http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail/224892/1/5

画像手前、向かって左手の御膳に盛られているのがお餅で「御鏡餅」と記されていますね。
お餅の上には鮎かな?2匹の魚が乗せられています。

でも、どこが花びら餅の起源なのかさっぱりわかりません(;´∀`)

そういう訳で、もう少し調べてみたら、「和菓子と餅」というサイトの花びら餅の項にこのようなことが記されていました。

 江戸時代初期の「後水尾院当時年中行事」に「いつの頃よりの事にか、其やう、まづ御さかづきに三方一ツに、ひし花びら、こぶ、かちぐり、くしがき、かずのこ、あめ、五辛等、さまざまの物をとり入て、御前にまゐらす、御はしをとらるヽまでもなく、むかはるヽばかりにて、撤して庇におきて、中臈下臈あまたすヽみよりて、彼さまざまの物をとり分、ひし花びらのうへにつつみかさねて、女中上中しもにたぶ」とあり、歯固に用いられた品を菱花びらの上に包み重ねて食べている。

http://www.geocities.jp/widetown/otona/otona_140.htm#top) 


歯固めの儀では、天皇は実際に食べることなく、箸を付けて“食べたとみなす”ということでしたが、食べなかったお料理を“菱花びら”の上に乗せて、包んで女中さんたちに分け与え食べていたということですね。いわゆるお下賜品だったということでしょうか?

また、「後水尾院当時年中行事」の該当箇所は下記リンク先にて確認できます。

  → 後水尾院当時年中行事 12コマ/全61コマ中 (国文学研究資料館)

ここで「菱花びら」って何?と疑問が湧くと思いますが、「菱」は小豆の渋で着色した菱型のお餅のことで、「花びら」は白い丸餅を薄く平らに伸ばしたもの。梅の花をイメージした「花びら」の上に「菱」を乗せて、「菱花びら」と言います。古くから宮中の鏡餅に使用されてきた伝統あるお餅なのだそうです。

下記は国立国会図書館デジタルコレクションの「立入宗継文書・川端道喜文書」から、わかりやすいように一部を切り取ったものになります。

立入宗継文書・川端道喜文書より
正月御居御鏡餅(しょうがつおなりおかがみもち)
hanabira2.png
国立国会図書館デジタルコレクションより 207コマ目の画像をわかりやすく一部切り取ったもの
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920989


三方の一番下は白くて大きなお餅。次に赤くて大きなお餅が重ねてあって、さらにその上には薄くて丸いお餅と菱型の薄いお餅が重ねられています。数は両方とも12枚。これが「菱花びら」です。

ということは、「花びら餅」の起源は、宮中の鏡餅だった!ということにもなりますよね。

実際に、現代でも宮中ではお正月に食べられていて、久能靖氏の著書「天皇の祈りと宮中祭祀」によると、皇室でお雑煮を食べるのは夜。朝は「菱」の対角線上に溝を作って、そこに甘い味噌と茹でた細い牛蒡を乗せ、二つ折りにした「菱葩(ひしはなびら)」を食べるのが習わしになっているとのこと。

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(画像 → 「天皇の祈りと宮中祭祀」 久能靖・著 より P86)

さらに、57年に渡り宮中の神事や御用を司る内掌典を務めた高谷朝子氏の著書「宮中賢所物語」によると、御所では「菱」の部分だけを食べると書かれていました。

 御所では、この「お祝いがちん」のお菱だけをお召しあそばし、お葩はお下げあそばしますように伺いました。お葩はお菱のお盆変わりの役目でございますとの由にございます。

※「がちん」とは御所用語で「お餅」という意味です。
(「宮中賢所物語」 高谷朝子・著より P115 ) 


御所では土台の「葩(はなびら)」の部分はお盆の役目をしていたのですね。

大きさについては、同じく「宮中賢所物語」によると、「お菱」は対角線が約15センチ、厚さ1センチに満たないほどで、「お葩」は直径15センチくらいであると書かれています。けっこう大きいですよね。

宮中で食べられていたこの「お祝いがちん(焼きがちん)」が形を変えて、一般に世に出るきっかけになったのは明治初期の頃。裏千家11世玄々斎が宮中に呼ばれ献茶し、正月恩賜の葩餅を御所から持ち帰りました。明治3年、東京遷都の後に宮中献茶を記念して、玄々斎から京都の老舗和菓子店「川端道喜」12代目に初釜用の主菓子「御菱葩」の創作を依頼したことにあるそうです。

「川端道喜」といえば、「とらや」と同じくらいか、それ以上に古い老舗中の老舗。粽で有名な和菓子屋さんですよね。

昨今ではあちこちの和菓子屋さんがそれぞれに花びら餅を作ってバリエーションも豊富ですが、その元祖となるのが川端道喜の「御菱葩(おんひしはなびら)」になり、裏千家の初釜で出される以外は、なかなか一般の人の手には入らない和菓子です。

和猫も食べたことがありません(;´∀`)

川端道喜の「御菱葩」は、白味噌の餡が、餡というよりも、ソースのようにトロリとしているそうです。そのため、黒文字で切ってしまうと大変なことになるらしい。以前は蒸した牛蒡はお餅の外にはみ出ていたようですが、現在は餅の中におさめられているそうで、これも柔らかい餡が垂れてきてお着物を汚さないようにという配慮とか。

御菱葩をお客に出す時の“向き”も、お餅の綴じ目を手前ではなく、反対側に置くこともあるようで、これも食べる方への配慮なのだそうです。これを懐紙に包んでカプリ!と齧ってしまうほうが、餡が垂れてこなくていいのかも。

御菱葩を一般の人が食べることが出来る貴重な機会が、年に1度、12月末にあります。
新年の初釜用に作る前の試作品を「試みの餅」として予約販売するのです。

「数量限定、要予約、指定の日に店頭へ取りに行けること」という課題さえクリア出来れば、和猫もいつか食べてみることが出来るかも知れないけれど、年末の多忙な時期に京都まで取りに行くことがなかなか出来ない(;´∀`) でも、いつかは川端道喜の「御菱葩」を食べてみたいと、毎年1月の初釜の頃になると密かに思っています( *´艸`)

2016_07
17
(Sun)22:35

【雑記】埋れ木

“いと重菓舗”の「埋れ木」は、彦根藩第13代藩主である井伊直弼公が青年時代を過ごした「埋れ木舎(うもれぎのや)」に因んで名づけられた、ひこにゃん (=^. .^=)のお膝元である彦根の銘菓です。

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いい塩梅に仕上げられた白餡を包む柔らかい求肥。
求肥の上に満遍なく振り掛けられている、抹茶を混ぜ合わせた和三盆が口の中で溶けていく感じがたまらんのです(´∀`*)
抹茶、緑茶、それからコーヒーにも合う優れもの。
紅茶は試したことがないのでわからないけど、「埋れ木」は銘菓中の銘菓だと思っております。

人工甘味料では出すことのできない、“甘いけど甘すぎない”という「自然体の和三盆」が、主張し過ぎることなく絶妙な加減で使用されています。こういうさりげなさが何とも心地良く感じるのです。

冒頭にも記しましたが、菓子名になった「埋れ木」は、井伊直弼とゆかりのある、文化六年(1809年)創業の老舗菓子店「いと重菓舗」が、井伊直弼が青年時代を過ごした「埋れ木舎(うもれぎのや)」に因んで名づけたものです。

井伊直弼と言えば、桜田門外の変で水戸藩浪士に暗殺された、という歴史的事実と、「一期一会」や「独座観念」という概念を確立した、非常に優れた茶人であったこと以外、よく知らない和猫ですが、思いもよらず彦根藩第13代藩主になるまでは、大名家の14男として、世間的には文字通り埋もれた生活を送っていたそうです。こちらのサイトでいろいろ知りました(;´∀`)

  → 井伊直弼と開国150年祭 直弼を知る

大名の子供は長男を除き、他の大名の養子になること以外に、社会的な道は開かれていなかったそうです。
養子にもなれなかった直弼は、17歳で父を亡くした後、藩の定めにより、300俵の捨扶持を与えられて城外の屋敷に移り住むことになりました。その時に住んでいた部屋を、直弼自身が「埋木舎」と名付けたということです。

  → 直弼二十二景より 第三景 埋木舎

しかし、埋木舎で過ごした17歳から32歳までの15年間は、直弼にとって決して埋もれていた人生ではなかったと感じます。
非常に勉強熱心であった直弼は、和歌、茶の湯、禅、兵学、国学などを学び、「一日に二時(四時間)寝れば足る」と修練に励んだそうですが、少なくとも石州流宗猿派(せきしゅうりゅうそうえんは)を極めた茶人、井伊宗観(いいそうかん)としての井伊直弼は「埋木舎」によって誕生したのです。

  世の中を よそに見つつも埋れ木の 埋もれてをらむ 心なき身は   井伊直弼御歌

歴史に思いを馳せながら、抹茶のお供にいただく“いと重”の「埋れ木」はまた一段と味わい深くなります。



  → いと重菓舗HP

彦根に足を延ばされた際にはぜひお試しあれ!